心の糧に~明治天皇御製

靈氣法の漸修の中で、明治天皇のつくられた御歌を心の糧とせよとの臼井先生のお言葉があります。

臼井先生は、明治天皇の御影を拝見した際、とてつもない靈氣が放射されていることを感じられ、その御歌からも靈氣と響き合っている状態を感得なされたそうです。

明治天皇御製は、その御歌に流れる御心はもとより、貫かれている視座を観て日々の心の糧として落とし込むことが肝要です。

今はわからなくても、時を経て忽然と理解することもあります。

この御製も折にふれ、自身の感じとれたことを明らかにすることが大切かとおもわれます。

 

あさみどり 澄みわたりたる大空の
 広きをおのが 心ともがな (天)

<用語解釈>

俳句や短歌では字数が限られているからこそ、詠み人は心の内を表す言葉を厳選しています。何故、この言葉や文法を選んだのかということを念頭におきながら解釈することは、歌の真意そしてつき動かしているパッション(動機)に近づけると思います。このような視点から御歌の自分なりの大意を記しています。

 

「あさみどり」は浅緑、浅葱色(あさぎいろ)をさします。

「暦生活」

緑がかった青で、薄い葱の葉色という意味をもつそうです。

浅葱色は武士が切腹をする時の裃の色でもあります。

このことから「決死の覚悟」という意味で歌舞伎界では澤瀉屋さんがこの裃の色を使われています。(他の家の襲名披露の時には團十郎茶の裃)

また「糸」や「野辺」に続く枕詞としても使われます。

ここでは「あさぎいろの野辺」を類推できるとして「野辺」を省略し、「澄み渡りたる大空」というところを大切にされたのではないでしょうか。

「ともがな」は格助詞「と」+願望の終助詞「もがな」の連語です。

「…としたいものだ。…であってほしい。」と「…」に当たるところを願う意味をもちます。

 

<御歌大意>

四季折々に変化する野辺を包み込んでいる大空。

その広さこそ求めている心のあり様ではないだろうか。

起って来る出来事に一喜一憂しても、本当の自分はひとつとして傷ついたりはしておらず、純粋なままである。

純粋であることを認め、許し、受容することが「広さ」であり、この大空はそれを教えてくれている。

 

臼井霊気療法 教義五戒

気づき(頓悟)により新たな世界観を得て、そこからの迷いや問題との向き合い方の指針として、臼井先生は教義五戒を唱えることを示されています。

これは、問題に囚われている思考(言葉)を五戒の言葉で置き換え、思考でしか問題を解決できないという無意識の思い込みをはずすことではないでしょうか。

五戒の言葉を自身の言葉で解釈していくことで問題が消えていることに気づきます。

この作業を日々繰り返すことが霊気法における漸修となるでしょう。

今日という日は「いま」を「体験」する場であり

「体験」というものは「いま」でしかできない

怒りや心配などネガティブな思考にとらわれることはない

それは過去にあって「いま」では体験できず

未来にあって「いま」では体験できない

起る出来事に縁の有り難さを感じ

そこから「いま」行動するだけで良いのだ

自身が光明であれ!

平成三十一年三月二十日記す

靈氣法 十牛図「入鄽垂手」

「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」

悟りを得た修行者が、街へ出て(入鄽)、人々と交わり、救いの手を垂れること

~参考・引用文献『現代語訳 十牛図』水野聡 訳

修行を終えて家に帰った布袋和尚(最初は少年として描かれている)は、街へでます。

「笑い腮(あざと)に満つ」、天真爛漫な底抜けの明るさで、一緒にいる人々に生きる力を呼び起こさせます。

何かを教えるのではなく、共にいるだけで、人々に気づきを与えるのです。

十牛図の根底には「頓悟漸修」すなわち、悟りは一度きりではなく、その悟り以後の迷いや問題点と向きあい続けるということが流れており、それは布袋和尚が最初の少年に出会うところに示唆されています。

靈氣法における「入鄽垂手」の境地。

そこへ向かう「頓悟漸修」について臼井先生は次のことをあげられています。

・臼井霊気療法 教義五戒 を毎日唱える

・発霊法を行う

・明治天皇御製を心の糧とする

このことを理解するだけでなく、真摯に取り組み行うことによってのみ

得られる境地はあります。

響き合う靈氣~レイキと十牛図

十牛図(じゅうぎゅうず)というものを見たり聞いたりしたことはあるでしょうか。

ウィキペディアには「禅の悟りに至る道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの。牛は人の心の象徴とされる。またあるいは、牛を悟り、童子を修行者と見立てる。」といったことが書いてあります。

初は八牛しかありませんでしたが、十二世紀の中国の廓庵(かくあん)禅師によりもう二つつけ加えられて十牛図となりました。

この二図により、真理を探究する道筋のみならず探究者とは何者なのか、道を進もうとした動機(衝動)まで観えてくるようです。

 

真理を探究するための道筋はいくつもあります。

どの道筋を選ぶのか、あるいは気が付くと歩き出している道筋があるかは、ひとそれぞれです。

その道を進めば進むほど意識が広がるのを感じることでしょう。

 

真理に至ったと感じると、その道にとどまったり、もう一度意識の広がりを感じたくなり逆戻りしたり、新たな道を探そうとしたりします。

 

レイキ(法)も真理を探究する道筋のひとつです。

レイキ実践者はレイキ法を研鑽することも大切です。

しかしながら安心立命に至りそこにくつろぐには、十牛図の九枚目、十枚目の示すところを理解することではないでしょうか。

 

日常のすべてがレイキと響き合う

十牛図における十枚目の境地へ

2015-11-26

教義五戒

招福の秘法

萬病の霊法

今日丈けは 怒るな

心配すな 感謝して

業をはげめ 人に親切に

朝夕合掌して心に念じ口に唱えよ

心身改善 臼井霊氣療法

肇祖  臼井甕男

臼井先生の流れをくむ霊気法を実践するものにとって、この教義五戒は臼井先生が経験された境地を知るうえで、大きな指針となっています。

五戒を実践し達成することが目的ではなく、それに沿った生き方が安心立命へと至るということです。

つまり安心立命へ至るには、日常の中で起きてくることに対して、感情にのみこまれそれをどうにかしようとすることに終始するのではなく、愛であることから発する行動してみようということです。

五戒は臼井先生が自他一体の幸福感を得られたからこそ、他人ではない皆と分かちあいたいと感じて、言葉で表現された『境地』です。

レイキ実践者は、ここに示された『境地』を日々、心に唱え、自分の理解としてその時々言葉で表現してみるといいかもしれません。

最後に、自分なりの現在の解釈を記させていただきます。

今日・・・『いま』に意識を向けてみよう

「過去」に意識があるとき、怒りとともに「今度もそうなる」という思考がおこり

「未来」に意識があるとき、心配とともに「どうなるかわからない」という思考がおこる

『いま』に意識があるとき、「過去」も「未来」もなく、怒りも心配もおこらない

あるのは「すべてが感謝である」という状態だけである

感謝である状態を感じ、おこってくることを大いなるものにまかせ、『いま』表現したいことに意識をむけよう

人に親切であることは、自分への癒しとなり、やがて自他一体の心を知ることになるだろう

2013-03-13

日常のすべてが響き合う

レイキ法といえば、癒しの手法のひとつか手当て療法であろうと認識されてる方も多いと思います。

癒しとしてレイキ法を行うと、あたたかくなるような、ほっとするような感覚がして、「癒された」ということで「おわり」になります。

その癒しがおとずれた瞬間、ある気づきがおこることがあります。

 

この感覚こそ、自分が探し求めていたもの

この感覚を味わうために、自分はこの人生をすごしている

 

そして今までもこの感覚は何度か自分におとずれていた

そしていつも今もずっと自分の中にある

そしてまわりにいる人、自然、宇宙のなかにも

 

癒しとはこの感覚(安心立命)への道標にほかならない

レイキと響き合っている状態に気づき、すべての中にそれを観て、表現する

 

特別な環境ではなく、日常生活の中にレイキが満ちて、響き合っている状態に気づき、享受することが、レイキ法の示しているゴールです。

2013-01-17

レイキの「方」と「法」

臼井霊気療法の創始者、臼井甕男先生は安心立命の境地を「レイキと響きあう生き方こそが、健康と幸福への道である」と悟られたと言われています。

この原点に立ち返り、レイキ法ということを観てみましょう。

 

「方」というのは、目的であるところへ向かう地図です。

レイキ(法)では、健康と幸福への道をあらわしています。

 

「法」というのは、目的地そのもの、そこにくつろいでいる状態です。

レイキでは、安心立命の境地をさしています。

 

レイキ法の真髄は、手当て療法を入口(方)として、人生の目的である安心立命の境地(法)にくつろぐことであると表現されるゆえんは、ここにあります。

 

レイキ法を手当て療法(ヒーリング)のみで行うことと、安心立命へいたる道として行っていくことでは、大いなる違いが感じられるはずです。

2012-05-25

レイキを伝える

レイキを伝えるというということは、レイキ法を伝えるということだけではありません。

レイキを伝える「正しいやり方」に拘泥すると、伝える者と伝えられる者という分離感が前提となって、神髄である自他一体の幸福が見えなくなってしまいがちです。

 

レイキと響き合っていある状態が、いまここに、あなたの中に、私の中にある、ということを伝えることです。

その状態にいつでも還れるように、本来の自分がいつもその状態にいることを思い出すために、方向を示すことです。

何かにたどり着くのではなく、ずっとここにいるという状態を共感しあうことです。

 

新しい年を迎えるにあたり、レイキ実践者としてレイキの神髄を伝えるということについて自分に問いなおしてみました。

2011-12-31

レイキと陰陽説

レイキとは、宇宙に満ちる愛と調和と癒しのエネルギーだと言われています。

科学的な視点から、レイキは近年では量子力学を通して説明されることはあります。

 

それでは、陰陽説の視点からは、どう観ることができるでしょう。

以下は、とらえ方のひとつとして挙げました。

 

陰陽とは、古代中国に端を発する思想で、あらゆる事象は、「陽」と「陰」の二気の変化によって起こるとしており、それを体系化したものが「易」にみられる陰陽説です。

易には大きく分けて「神農易」と「黄帝易」の流れがあります。

「神農易」は「易経」にある今日も残っている易です。

「黄帝易」は、「列子」の一部や「傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)」の一部にみられるだけです。

「易経」では、『原初は混沌(カオス)の状態であると考え、この混沌の中から光に満ちた明るい澄んだ気、すなわち陽の気が上昇して天となり、重く濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。(Wikipediaより引用)』と原初は「有」であったとしています。

一方「黄帝易」では、原初は「無(=道、太一)」であったとしているのです。

「無」から最初に生まれたのは、「宇宙」です。「宇宙」とは、宇=時間、宙=空間です。そしてその宇宙(時間と空間)から生まれたのが「氣」です。この「氣」は、明るく澄んだもの(陽)が上昇して天となり、重く濁ったもの(陰)が地となったとしています。(参考文献:『全訳 傷寒論』)

 

レイキ(霊気)とは、後者の「黄帝易」の陰陽説の視点からみた「氣」ではないでしょうか。

陽と陰とを同時にもち、どちらでもなく、宇宙そのものである。

宇宙は、無(大いなるひとつの意識体)を知るために、無が生み出した創造物(想像物)なのです。

宇宙では、「無」のすばらしさを「愛である」ことで描き続けているのです。

その描きつづけている状態が、霊気(エネルギー)なのでしょう。

 

霊気を感じる(響き合う)ことは、「無」である至福を思い出すことになるのかもしれません。

 

五戒とともに

レイキ法にはいろいろな系統があることは、ご存知だと思います。

その中で、臼井甕男先生が名付けられた「臼井霊気療法」の系統をつぐレイキ法には「臼井霊気療法教義五戒」という自らが示された教えがあります。

招福の秘法

萬病の霊薬

 

今日丈は 怒るな

心配すな

感謝して

業をはげめ

人に親切に

 

朝夕合掌して心に念じ口に唱えよ

 

これは、健康で幸福な人生をめざし、今日一日をこのように心がけて、大切に生きようという教えであるとも言われています。

 

この五戒を実践しようと努力されたレイキ実践者もいらっしゃると思います。

自分もそうですが、なかなかうまくいかないものです。

毎朝晩唱えて、レイキ法を実践していけば、そのうちできるようになるかもしれないと思いましたが、その気配もありませんでした。

 

ここで大きな勘違いをしていたことに気がついたのです。

 

五戒は目標ではなく健康で幸福な人生をめざす「方向」だったのです。

怒らない、心配しない、感謝をする、業(自分のすべきこと)に励む、人に親切にすることを「実行する(Do)」のではなく、そうしている「状態(Be)」に心(意識)をもっていこうということなのです。

 

怒るな;感情(喜怒哀楽)を表現しつづけなくてもゆるされていることを知る。

心配すな;あるがままの自分で大丈夫であることを知る。

感謝して;すでに満たされていることを知る。

業をはげめ;いまここにあることを知る。

人に親切に;自他は一体であると知る。

 

すなわち、心配しないようにするのではなく、心配しそうになった時に「あるがままの自分で大丈夫である」と思い出していくのです。

五戒に書いてあるように実践するのではなく、そうすることがもたらす心の状態を体験するのことがレイキとの響き合いでもあるのです。

 

五戒とは「私は・・・である」というレイキとの響き合いを知るアファーメーションであるかもしれません。

2011-03-04