五行説について

陰陽五行説は、陰陽説と五行説を合わせ万物の事象を理解しようとしたものです

陰陽説については先回述べましたので、今回は五行説についてのべたいと思います

 

陰陽説と五行説は別々のところからきたものではなく、陰陽説から五行説が生まれたといっても過言ではありません

 

この世ははじめ渾沌の一気(完璧)でありましたが、その完璧さを意識するために、陽と陰(陽でないもの)ができました

これは陰があるから陽が意識できるということは、前回も述べたとおりです

また陰と陽が同時にあるということは、比較するためでもあります

完璧であることを表す「永遠である」ことを意識するには、永遠でない=「変化する」ということが意識されなければなりません

万物事象のその時々を比較し続ける、すなわち陰からと陽からのアプローチをし続けることが、「変化する」と意識することです

 

五行説は、時代により若干の違いはありますが、混沌の一気が陰と陽に分かれ、それが天と地となり、地→土から火、水、木、金が生じたというものです

そしてその移り変わりこそが「変化する」ということであり、そのことを意識したいがために五行の質を「生→壮→老→因→死」と名付け五行の流れを「時間」と名付けたのです

永遠しかないがゆえに、永遠を意識したいという大いなる意識の衝動により生み出された「変化する」ことを、いろいろなバリエーションで体験するためのツールであるといえます

この観点により、五行説の「木火土金水」を万物事象の固定された性質でなく、そのものが変化のどの時点にあるか、もっと言えばどの状態を自分がどう感じているかに気付くことになります

この「変化する」ということは、当たり前のこととして私たちは感じ、その前提で物事を観ています

「変化する」ことを意識したいという衝動(パッション)に還るとき、「生→壮→老→因→死」をありのまま受け入れ、不安やおそれの糧にすることはなくなってくることでしょう

2014-01-09

陰と陽 その弐

大宇宙(大いなるひとつの意識)がその完璧さ(愛)を認識する目的のため、「比較する」同時に存在する二つのものを作り、それを東洋では「陰」と「陽」と名づけたというのが前回の記事でした。

陰と陽はどちらかひとつだけでは比較することができないので、認識することはできません。

それ故、「良いこと、正しいこと、満たされていること」と認識していることは、同時に比較する「悪いこと、不正なこと、不足していること」と認識していることでもあるのです。

しかし、顕在意識においては、これは「良いこと」あるいは「悪いこと」といったどちらかしか認識していないことがほとんどです。

そしてその起きている物事・事象の本質=「陰」または「陽」であると受け止め、その決定に翻弄されています。

 

ここで大宇宙の観点に立ち返ってみましょう。

 

「陰」と「陽」は、愛を認識するためのいわば働き(道具)です。

陰陽のもつ性質を認識するのではなく、不完全な陰の性質、陽の性質を動機として愛を認識するのが大宇宙の目的なのです。

 

陰の側面から不足感、欠乏感、怒り・悲しみの感情を体験して完璧さを味わうのか

陽の側面から満足感、歓び・幸福感を体験して完璧さを味わうのか

 

どちらを選んでも完璧さ(愛)を認識できるようになっています。

このことが「大宇宙を信頼する」「自分を愛する」ということの理解へとつながります。

2013-11-05

波動を感じる

全ての物は波動でできている、ということは最近ではよく言われるようになっています。

量子力学の分野でも、物質を構成する最小単位が素粒子よりさらにあることが解明されつつあります。

この素粒子が絶えず微弱ながらも運動している状態、つまりその振動を「波動」と呼んでいます。

 

この「波動」を見るために、物理科学の世界ではさまざまな大規模な実験や機器の開発が行われています。

 

「波動」を知るためには、こういった方法以外にはないのでしょうか。

 

「波動を感じる」・・・これは私たちが無意識にいつも行っていることです。

ただその感じたことを思考におとしたい傾向があるため、自分を分析機器のようにしてしまい、波動が高い、波動が乱れている、いい波動を感じると評価しているのです。

 

これを大いなる意識の観点で観てみましょう。

ひとつの大いなる意識は、完璧、絶対、永遠であることを意識するために、分離した意識を創造(想像)しました。

この分離した意識が大いなる意識を観よう(知ろう)としている意識の動き(状態) が波動なのです。

 

陰陽を通して、善悪を通して、正誤を通して、さまざまな二元性が生み出すドラマでの経験をおこしているのは、この波動~完璧・絶対・永遠を感じたいという衝動~なのです。

 

波動とは、このように根源的で、誰もが自分の中にあるものです。

 

波動を感じるとは、さまざまな経験は完璧・絶対・永遠を感じるために起こっているという安心立命への気づきであり、「波動」を知ることです。

2013-09-03

陰と陽

古代中国で発生した陰陽説は、天文暦、宗教、倫理、政治、兵法、産業、医術、芸術などの根拠となって、変遷と発達がありました

これは天体の運行を観察することにより、古代中国人が大宇宙の目的を感得し理論体系化したものです

(以上『漢方問答』荒木正胤著より一部引用させていただきました)

 

今日では、理論体系化した内容に重きがおかれ、いかに理論を応用するかに関心が集まっているように感じられます

現実と理論の整合性に拘泥するあまり、日常生活に豊かさを感じられず、ややもすると理想を追い求めて窮屈になっていることさえあります

これは真理を知るための手段(理論)が目的となっているからではないでしょうか

 

それでは「感得された大宇宙の目的」とは何なのでしょう

 

大宇宙(大いなるひとつの意識)は、完璧な状態にあり、このままでは完璧ということを意識できない、そのために、完璧でない状態(分離意識)を創造しました

つまり、完璧さを認識することが大宇宙の目的なのです

 

その目的を達成するためのものが「比較する」ということです

比較するには同時に存在する二つのものが必要となります

それを「陰」と「陽」と名づけたのです

陰と陽は、正反対のものではなく、完璧である(愛である)状態の程度の両極です

陰は限りなく愛でない状態、陽は限りなく愛である状態なのですが、その時に陰である状態、陽である状態のみしか認識できなければ比較できません

したがって、陰と陽は同時に存在しています

この愛である状態の「程度」(陰か陽か)を決めているのが、私たち(分離意識)の思い込みや業(カルマ)です

 

すなわち陰陽というものは、対象物がもつ性質ではなく、観察者の愛である状態を感じる観点の位置とも言えます

それでもある程度の共通認識が得られるのは、個人意識、集合意識が共有している「程度」(思い込みや業)があるからです

 

このような陰陽という概念が発生した動機(パッション)からの観点ももちながら、陰陽説をとらえなおすと真意が観えて、理解が深まると思います

2013-07-08

知識と智慧のかかわり

知識と智慧、この二つの言葉とのかかわり方で、人生が違ったものになります。

 

漢和辞典(漢語林)でこれらの意味するところを調べてみますと

知識;ことばを縦横に整え織りだして、物事を区別する、知るの意味を表す

智慧;物事を決断したり善悪を選ぶ、心のはたらき

とあります。

 

知識とは、物事を分離・分析して、ある制限(条件下)をもって観ていくための道具、道標のようなものです。

不安や怖れ、期待から発するものは、そのことが実現する情報となります。

知識に依存する、すなわち知識を通してこそ人生を豊かにすることができるというかかわり方をする限りは、不安や怖れ、期待といった不安定な感情にふりまわされることになるでしょう。

 

智慧とは、本質の自分(大いなる意識)が喜びからしたいと感じるものを選びとる心のはたらきのことです。

この心のはたらきにしたがって、選びそして行動することは、たとえ一時的にうまくいってないように感じたり、こんなことは二度とないと思うくらい幸せなことがあったとしても、やがて心の平安へとつながり、またそうなると信じられます。

 

私たちは、親から、学校からそして社会に出ても、知識を通して自己実現することを教えられ続け、そうすべきだと無意識に信じて行動しています。

このことを知らなかったから、理解してなかったからうまくいかなかった。

知識が足りなかったからだ・・・そんな風に感じなくてもいいのです。

 

知識は量を増やしてもちづづけるものではなくて、人生を豊かに表現するためにどのように使うかです。

使い方を知っているのは、あなたの中にある智慧です。

2013-05-09

鏡の国のアリス

『レイキと陰陽説』のところで、

宇宙は、無(大いなるひとつの意識体)を知るために、無が生み出した創造物(想像物)なのです。

と書きました。

 

では、無が生み出した宇宙は、無を知るためにどうしたのだろう?と想像してみます。

 

無の目的は「『無』というものを感じること」のみです。

 

完璧でない(無でない)ものを通して、完璧さを知ろうとします。

 

一方、私たち(すべての創造物)は、その目的と自分は何者であるかを忘れて生まれてきます。

しかし、常にその目的を遂行するためのプログラム(運命)は作動しつづけているのです。

 

それは、『自分以外のものに自分を映し出して自分というものを知ろうとする』

 

というプログラムです。

 

家族、親族、友人、恋人、動植物、無生物、社会、・・・・宇宙、すべてに名前をつけて、いったん分離しておいてそこに自分を映しだしているのです。

 

でもそのことを私たちは、日常意識したことはほとんどありません。

映し出した現象に連続性を与え、ドラマをつくり、それに対するからだの反応に喜怒哀楽という名前をつけ、それに翻弄されているのです。

 

自分がすんでいたのは、鏡の国だと知った時、自他合一の平安な境地がみえてきます。

自分を知るということが大いなる意識の目的にかなっているという安堵感がおとずれるでしょう。

2011-10-27

生きとし生けるもの

十数年前、ある仏教に関する本を紹介していただきました。

『微笑みを生きる~<気づき>の瞑想と実践』というタイトルで、著者はティック・ナット・ハンというベトナム出身の仏教指導者の方でした。

 

当時、仏教に対して知的な理解を求めていた私は、気づき(mindfulness)や安らぎを得るための瞑想法が微笑むことであったり、個人の平安を世界の幸福に導く実践的なことが書かれていたことに、ある意味ショックを受けました。

ハン師は「行動する仏教」を説いておられたのです。

 

そしてもっとハン師の思想を理解したいと思い、師の著書を探していて出会ったのが『生けるブッダ、生けるキリスト』という本でした。

 

この時に感じたことは、「亡くなった釈迦やイエスが本当は何を伝えたかったのかにこだわるのではなく、現代に残っている(生きている)教えを知ることが大切だ」というものでした。

そして相変わらず知的な理解を得る道をすすんでいったのですが、ずっと心に本のタイトルである原題『LIVING BUDDHA,LIVING CHRIST』という響きのようなものが残っていました。

 

それから十年後、自分が「何も知らなかった、何もわかってはいなかった」ということに気付き、知的満足のために置いていた書籍を処分していた時に、この本と『再会』したのでした。

 

「生けるブッダ、生けるキリスト」、これは釈迦やイエスといった個人のことをさしたのではなく、大いなるものとひとつでありつづけている状態なのです。

 

そして「生ける~LIVING」とは、過去から現在へ伝わっているのではなく、ずっと「いまここ」にあるということなのです。

 

「LIVING BUDDHA,LIVING CHRIST 生けるブッダ、生けるキリスト」とは、内なる神と一時足らずも離れたことはなく、神でなかったことはない、そのことを思い出し、行動していく指針。

 

そして行動するのは、条件がととのった時ではなく、「いまここ」すなわち日常生活の中で行われることが「生ける」ということです。

 

私たちは「生きている」と感じてますが、「生ける」ことを絶え間なく感じつづけている存在なのかもしれません。

2011-09-29

季節を感じる

私たちは自然の変化から四季を感じとっています。

 

はじめは、気温や湿度の変化、植物の成長、魚や動物や昆虫の生態などから、それを「春」「夏」「秋」「冬」と名付けていました。

 

時をへて「春」とはこういうものだ、「夏」とはこういうものだという潜在意識のデータが積み重なり、そのうち「夏とはこいうもの」という基準からはずれることに不安をいだくようになります。

 

ありのままの夏を感じるのではなく、あるべき姿の夏をもとめて、自然界の変化を思考で読み解こうとします。

 

自然界は無常であるという点では、あるがままであり、そうあるべき理由(記憶)はもっていません。

記憶(データ)を持っているのは、自我だからです。

 

通常の仕事がはかどらない、眠れない、食欲がないのは、暑さのせいだと思ってしまうのは、そのためでしょう。

 

「本来の自分はこうあるべきだ」という思考をゆるめるために、夏の暑さはあるのかもしれませんね。

 

思考から離れて夏を満喫して久しぶりにブログ更新となった或素人の言い訳でした。

2011-08-31

縁起を知る その弐

「無常なもののあり方=因果」「この世は無常である」ということは、この世はすべて因果で成り立っているとも表現できます。

例えば、植物の種から芽がでて、四つ葉になり、つぼみをつけて、花が咲き、種をつけるといった変化(無常)です。

 

事はたんたんと起きてくるということは、すべてのことは因果関係にのって瞬間瞬間起こり続けているということです。

 

そこに苦しみを感じてしまうのはなぜでしょう。

 

自我は、「いまここ」にはおらず、過去には執着をもち、未来には不安をもちます。

つまり「因」には執着を、「果」には不安を投影するのです。

そのためあたかも「こと」が執着や不安そのものであると感じてしまうのです。

 

原因と結果が繰り返し、常に変化していきます。

その変化をおこす関係性に善悪をつけて一喜一憂する深刻さ、緊張感が「苦」なのです。

 

またその関係性と善悪の観念を離すことにより「苦」から解放されようとして、潜在意識の浄化にとりくんだりします。

 

ここで前回のブログで書いた縁起について思い出してみましょう。

「すべての事物は空である」ということは、「すでに完璧であり、満たされており、変化しようがない状態」にあるとも言えます。

 

したがって縁起する(変化する)無常な状態は、空ではない、すなわち実体性がないのです。

実体性のないものに対して苦しみ、解放されようとしているのは、夢の中で起こったできごとを解決しようとしていることに似ています。

 

縁起とは、「愛である」ことを知るために、「愛でない」ことを起こすシステムのようなものでしょう。

 

縁起に善悪を通して起こることを感じるのではなく、縁起によって起こることから「愛である」ことを知る、それが人生の「楽」へとつながるかもしれません。

2011-06-30

本棚からのヒント~縁起を知る

本棚に並べている本を久しぶりに読んだ時に、「ああ、こういうことだったのか!」と感じたことはありませんか?

 

今回はそんな体験をしたお話です。

 

本棚にあった書籍『ダライ・ラマの仏教入門~心は死を超えて存在する』

テンジン・ギャムツオ 著・石濱裕美子 訳

*十一年前に手に入れ、数回読んだ後に本棚のオブジェと化す。

*下記文中の参考引用文献は御著書↑です。

 

すべてのものは「縁起」する

 

縁起とは、条件に依存して生じること、条件によって生じること、条件の力を通じて生じること、という意味になります。

このことは、無知から始まり老死の苦に終わる原因と結果(因果関係)を示した十二支縁起にみられます。

当時は、十二支縁起とはどういうことなのか、そしてその輪廻から抜けるにはどうしたらいいのだろうか、という視点で読み進めていました。

 

今、読みなおしてみると大きな見落としがありました。

 

「すべての事物が空である」というのは、「自分というものも存在しない」とも言いかえられ、これは仏教哲学の根本命題です。

 

この根本命題を論証するための根拠が「縁起していること」です。

「縁起しているものは、何であれ実体性を持たない」

「すべての事物は縁起している」

という二つの事実から

「すべての事物は実体性を持たない」

という帰結となるのです。

 

「縁起しているがゆえに、これらの事物は実体として存在しない」と認識するために、無常なもののあり方(因果)を正しく把握しなければならないのです。

 

これは大いなる意識体が「愛である」ことを知るために「愛でない」ことを想像(創造)したと表現できないでしょうか。

 

因果関係の観えるもの(感情、時間など)そして事物に因果関係を観ている自分は、実体性がなく自我が想像(創造)していることにすぎず、因果関係が観えないものそして事物に因果関係を観ない自分こそ実体性があるのではないでしょうか。

 

人生には試練もギフトもなく、縁起から解き放たれた「楽」があるだけなのかもしれません。

 

因果という視点が自分から消えたとき、事はたんたんと起きてきます。

2011-06-11