これまで、大いなる意識体が「愛である」状態を感じるように、願望がつねに実現しつづけていると書きました。
もっとつきつめて言うと願望とは「愛である状態を感じる」ことのみをさしているのです。
それでは、世界が平和になって欲しい、天職につきたい、お金が欲しいなどは願望ではないのでしょうか?
これらは、不足感や不安といった「思い」を自分の外にあるものに投影(表現)しているにすぎないのです。
思いは現実化する
ということはお聞きになったことがあるかと存知ます。
そうして「世界が平和になって欲しい」、「天職につきたい」、「お金が欲しい」という思いが現実化する、つまりそう願いつづける状態が現実世界に展開されるのです。
願望とは自分の内からうまれています。
このことはある人から伺った例え話がわかりやすかったので少しアレンジして引用させていただきます。
内なる願望を実現するために、事がおこってきます。
それを、桃太郎のお話に例えましょう。
川で洗濯をしていたAおばあさんはさんは、上流から何か流れてくるのを見て「あ、桃だ」と思っても、なんだかあやしいからとそのまま見送りました。
Bおばあさんは、「あ、桃だ。めずらしいこともあるものだ。」と川の中に入ってとって、食べようと思って中を割ると元気な男の子が生まれて・・・(かなり中略)・・・鬼退治をして、おばあさんの住む村には平和がおとずれました。
その話を聞いたAおばあさんは、「私が最初に見つけたのに」と悔しがりました。
「桃が流れてくる」ということは、「事が起こってくる」ということを意味します。
「桃」は、願望の実現のヒントを象徴しています。
Aさんは桃に「あやしいものには手をださない方が良い」という不安な思いを投影して見送りました。
Bさんは、「桃が流れてくる」ということをそのまま受け止めて、桃を手にします。そこから事が起こり続けて、最後には村の平和と人々の感謝を受けます。
事は誰にでも同じように起きているのですが、そのヒントに気づいて受け取る(行動にでる)かどうかなのです。
事に「思い」を投影するとその「思い」が現実化するのです。
事にヒントを見出し(観点をもち)、その観点から動くと願望が実現します。
起こってくることは、ヒント(観点を示すもの)であって、恩恵そのものではありません。
それを受け止めて、「行動する」ということが大切になってきます。
愛である状態の観点から、行動を起こすこと、または行動を起こそうとすることを『努力する』と言います。
努力することは、「愛である状態」を表現し続けることと同じです。
『努』という字は、出産するときにいきむ力のことを意味するそうですが、まさに「愛である状態」を表現し続けていますね。
2010-12-19