無知の知

『信じている』と『知っている』は大きく違います

『信じている』には疑いがあり、同時に『信じてない』も存在しています

『知っている』には、疑いは全く存在していません

 

ある方からこの話を伺った時に、少し動揺してしまいました。

真理を体得するには、まず信じることからはじまるのではないかという思いがあったからです。

 

久々に龍慧園をてくてく散歩します。

木々がさわさわと語りかけるように揺れる中「無知の知」と聴こえてきます。

 

自分が知らないということを知っている・・・・・

知っているということを知らない・・・・・

 

信じるということは、すべては完璧であると自分は知っている、ということを知らないことから生じる行動なのだ。

未知のもの(結果)から自分(自我)を守るために、責任を外に預けているのだ。

自信というものは本質的には存在せず、『自信がない』か『自信のなさがない』かといった話が思い出される・・・・・

 

すべては自分の中に完璧にある、その当り前さに気づくことが「知る」なのです。

 

仏教では、真理を知ることを「智」と言うそうです。

頭で考えることで信ずべきものはなく、いまここにある状態を「信」と言うそうです。

私たちが『信じる』時、意識は未来にあり、いまここにはありません。

『信じる』ことは行為(Do)なのです。

『信』(Be)を未来に築こうとしていたのです。

 

『信じる』ことが当たり前になっていたことに、気づきを与えていただいた出来事でした。

2011-02-17

浄化と受容

自分の内面に意識が向かうようになると、ネガティブな感情や試練と思われるような出来事が起こったと感じることがあるのではないでしょうか。

 

「それは、浄化が起こっているのです。」

「ネガティブな感情を手放してみましょう。」

「そのように感じる自分を認め、受け入れてあげましょう。」

 

このようなアドバイスは、いまの自分の状況を知るには助けになるかもしれません。

しかしアドバイスの意味するところは理解できても、それを行動にうつすのに困難を感じたり、困惑したりすることはありませんか?

 

行動のひとつとして、浄化や自己受容をするさまざまなワークがあります。

これもうまくいく場合といかない場合、ワークに依存してしまうこともあります。

 

顕在意識が現実として観ている世界では、「行動する(Do)」ことに意識が向いています。

何をいつ、どのように、どの程度するのか・・・そういったやり方を思考しはじめているのです。

手放したり、浄化したりする「こと(感情、観念)」は、どこへやればいいのだろう、どうやって消えたことを確認できるのだろうと心配さえします。

 

超意識(ハイヤーセルフ)の観ている世界は、「ある(Be)」ことに意識があるのです。

「愛である状態へ移行せよ」

そう語り続けています。

 

手放したり、浄化すべきことが自分の存在そのものにあるのではなく、物事を善悪を発端とする価値観(フィルター)で観ていた自分に気づいて欲しいのです。

 

浄化とは、持ち続けていると愛でいられなくなる価値観のメガネをはずすこと

受容とは、愛である目からありのままの自分を観ること

 

浄化や受容ができる自分になることではなくて、浄化や受容をしている自分であること。

このことを思い出せば、自分が体感できるやり方がおのずともたらされてきます。

2011-01-18

祈り

2011年が明けました。

今年一年の目標や願いを初詣で祈願したり、年賀状、職場でのあいさつなどで表明された方もいらっしゃることでしょう。

 

「願望の実現」のところで、

 

ことはすべてプロセスであり、愛であることが結果となるように起こる

 

と書きました。

ここでの「プロセス」は、愛であろうとしている一瞬一瞬の状態のことです。

 

一方、次のような使われ方があります。

 

「必要なことは起こってくる。すべてはプロセスだから宇宙を信頼して任せれば良い。」

 

ここで言う「プロセス」は、今は辛く苦しいと感じられることもいつか訪れる幸いへの道なのだから気にしなくてもいい、というニュアンスがあります。

自分(自我)にとって必要か不必要か、損か得か、良いか悪いかの観点です。

 

起こってくる「こと」に、価値観をつけているのは自我です。

起こってくる「こと」に、愛を観るのは大いなる意識です。

 

今の自分の状態は本当の自分ではない、けれども本当の自分へ向かっているプロセスだから許そう、自分を認めてあげよう・・・・自我はそう言います。

 

今の自分の状態が完璧であるならば、そこへ愛を観よう、感じてみよう・・・・・超意識(ハイヤーセルフ)はそう言います。

 

そこには、プロセス(過程)は、存在しません。

ずっと愛であるという結果が存在しています。

 

祈りとは、起こってくることに愛を観ようとする決心なのかもしれませんね。

2011-01-12

導きの声

人生において選択をせまられた時、窮地に追い込まれたと感じた時など、インスピレーションが降りてきたことはありませんか?

守護してくれる存在、ガイド、ハイヤーセルフなどの導きの「声」として受け取る方もいるでしょう。

その導きの声にしたがって問題にしていたことが解決した時、自然と安堵と感謝で心が満たされます。

その声が常に聴こえるようになりたいと願います。

 

ではこの「声」を発しているのは「誰」なのでしょう。

そして「声」を聴いているのは「誰」なのでしょう。

 

「ひとつしかない大いなる意識体がその完璧さ(愛である)を感じるために、完璧でない意識を想像(創造)した」

 

このことを思い出す時、「声」を発しているのも聴いているのも同じ「自分」であることに気付きます。

 

顕在意識の自分が受け取っているという立場の認識から、大いなる意識体の自分が発しているという立場の認識にシフトしてみるのです。

 

導きの声は特別の存在から聴こえてくるのではなく、発しているのは自分だということに気づく。

 

そのことによりひとつの意識体としての自分を思い出すと同時に愛であることを感じるでしょう。

2010-12-29

願望の実現 その参

これまで、大いなる意識体が「愛である」状態を感じるように、願望がつねに実現しつづけていると書きました。

もっとつきつめて言うと願望とは「愛である状態を感じる」ことのみをさしているのです。

それでは、世界が平和になって欲しい、天職につきたい、お金が欲しいなどは願望ではないのでしょうか?

これらは、不足感や不安といった「思い」を自分の外にあるものに投影(表現)しているにすぎないのです。

 

思いは現実化する

ということはお聞きになったことがあるかと存知ます。

そうして「世界が平和になって欲しい」、「天職につきたい」、「お金が欲しい」という思いが現実化する、つまりそう願いつづける状態が現実世界に展開されるのです。

 

願望とは自分の内からうまれています。

このことはある人から伺った例え話がわかりやすかったので少しアレンジして引用させていただきます。

 

内なる願望を実現するために、事がおこってきます。

それを、桃太郎のお話に例えましょう。

川で洗濯をしていたAおばあさんはさんは、上流から何か流れてくるのを見て「あ、桃だ」と思っても、なんだかあやしいからとそのまま見送りました。

Bおばあさんは、「あ、桃だ。めずらしいこともあるものだ。」と川の中に入ってとって、食べようと思って中を割ると元気な男の子が生まれて・・・(かなり中略)・・・鬼退治をして、おばあさんの住む村には平和がおとずれました。

その話を聞いたAおばあさんは、「私が最初に見つけたのに」と悔しがりました。

「桃が流れてくる」ということは、「事が起こってくる」ということを意味します。

「桃」は、願望の実現のヒントを象徴しています。

Aさんは桃に「あやしいものには手をださない方が良い」という不安な思いを投影して見送りました。

Bさんは、「桃が流れてくる」ということをそのまま受け止めて、桃を手にします。そこから事が起こり続けて、最後には村の平和と人々の感謝を受けます。

 

事は誰にでも同じように起きているのですが、そのヒントに気づいて受け取る(行動にでる)かどうかなのです。

事に「思い」を投影するとその「思い」が現実化するのです。

事にヒントを見出し(観点をもち)、その観点から動くと願望が実現します。

 

起こってくることは、ヒント(観点を示すもの)であって、恩恵そのものではありません。

それを受け止めて、「行動する」ということが大切になってきます。

 

愛である状態の観点から、行動を起こすこと、または行動を起こそうとすることを『努力する』と言います。

努力することは、「愛である状態」を表現し続けることと同じです。

『努』という字は、出産するときにいきむ力のことを意味するそうですが、まさに「愛である状態」を表現し続けていますね。

2010-12-19

願望の実現 その弐

願望の実現について、前回

 

事が起きるのは、大いなる意識の「愛であることを感じる」願望の実現である

ことはすべてプロセスであり、愛であることが結果となるように起こる

そう信頼することが、願望実現のコツと言えるかもしれませんね。

 

と書きましたが、これについて少し補足させていただきます。

 

この「信頼する」ということについて、解釈の違いがあるようです。

 

「願望は実現しているので、宇宙(大いなる意識)にゆだねていけば、必要なことは起こってくる。だから何もしなくてよい。」

 

こう解釈してしまうとどうなると思いますか?

 

そうです。「宇宙にゆだねている」状態、「何もしなくていい」状態を実現し続けます。

つまり「愛であることを感じる」ための「事が起きる」ということが停止している状態になっているのです。

 

「愛であることが結果となって事が起きる。だから、自らは愛でありつづけよう。」

こう決心することが「信頼する」に他なりません。

 

願望が実現しないと感じている方や欲がなくなったので願望はないと感じる方は、その時自分が「愛である」かを感じてみてくださいね。

2010-12-14

願望の実現

ここ数年、願望の実現について書籍やブログで多くのことが語られてきています

私が知っているものをあげてみますと・・・・・

 

その願望がかなったさまをありありとイメージする

「~になりますように」ではなく「私は~です」と完了形で願う(アファメーションなど)

英会話が上達するなどの達成型のものは、毎日習慣化して、達成したあかつきの自分への報酬を具体的に設定しておく

 

 

このような情報があるにもかかわらず、願望がなかなか実現しないと感じるのはなぜでしょう?

それは、情報を持っていること(知っていること)で願望実現のプロセスを行っていると思い込んでいるか、失敗をおそれてやり方にこだわったりするために行動にうつせないでいるかです。

 

そして「わかっているんだけどできないんだよね。」となってしまうようです。

 

これがいわゆる「わかっているけどできないんだよね。」と感じる自分を実現してしまっている状態と言われています。

 

それではどんな風に願えばいいんだ~!!!となってしまいます。

 

とここで、本質の観点から願望実現をとらえなおしてみましょう。

そもそも願望とは何なのでしょう?どこから生まれるのでしょうか。

願望とは、いまのままの自分ではいけない、もっとすばらしい自分にならなければ、そのためには不足しているものを手にいれなければ・・・・というところからきているものです。

 

また願望が実現されている場合はどういうプロセスを経ているのでしょう。

例えば、こうしてブログを書いていることも願望実現と言えます。

ブログが書きたい→書くという行動までに、自己否定や不足感の入り込む余地はなく、あるとすれば自分には当然出来るという信頼だけです。

 

もっと大きなところから観てみましょう。

大いなるひとつの意識はその完璧さ(愛である)を知るために、愛でない状態を想像(創造)しました。

実は、ここが「願望」の原点なのです!

「愛を感じたい」⇔「愛でない状態を感じたい」

 

自己否定からくる願望は、「愛でない状態を感じることにより愛を感じることができる」ということ実現しています。

 

自己を信頼していることからくる願望は、「愛である状態を感じる」ということを実現しています。

 

私たちは、何をしてもつねに「願望」を実現し続けているのです。

このことを理解すると「願望は方法によって実現されないことがある」という感覚がなくなります。

そして自分が「願望」というものをどう定義していたか、自己否定、愛の不足、期待、依存、条件が形を変えていただけだということに気がつくでしょう。

 

事が起きるのは、大いなる意識の「愛であることを感じる」願望の実現である

ことはすべてプロセスであり、愛であることが結果となるように起こる

そう信頼することが、願望実現のコツと言えるかもしれませんね。

 

大丈夫です! 一瞬一瞬願いはかなっていますよ♪

2010-12-08 |

ゲームの達人

ふたつとない大いなる意識体は、その完璧な愛である状態を『意識』するために、愛でない状態を想像(創造)した。

このことが受けいられるとしたら、生きるということについての認識も大きくシフトしてくるでしょう。

 

生きるということは、愛であることを感じるためのジグソーパズルをつくるようなものかもしれません。

愛であることへのピースを手にするだけでなく、愛でないことのピースを手にして愛であることをきわだたせることもあるでしょう。

ひとつひとつのピースを手にとって、これが愛なのか、間違ったピースを手にしてないのかと悩んだり、いったいいつになったらできあがるのだと焦ったり・・・

効率の良いガイド本を手に入れようとしたり、他人の出来具合が気になったり・・・

 

ハイヤーセルフ(大いなる意識体)はこう言います。

 

「ゲームの達人であれ!」

 

ゲームをしている最中も終わった時も常に『楽』であること、そうあることによって、完成したパズルが『愛である』ことを体験できるのです。

ひとつひとつのピース(結果)の良しあしにとらわれてることで、ゲームの醍醐味を感じられないのはもったいないですよ!と言います。

 

辛く苦しいピースを拾ったとしてもそれを手放して『愛である』パズルの一部にすると、愛に還ります。

 

苦しみというものは存在せず、愛でない状態を表現していたにすぎなかったと知るでしょう。

「私は苦しい。」ではなく「これが私の表現する『苦しみ』だ」と。

 

生きるうえで苦悩や悲しさを感じた時、心の中でジグソーパズルのピースにその感情を書いたり色づけして、光の中にはめこんでみましょう。

 

「大丈夫だ!だいぶできてきたじゃないか!」

 

ハイヤーセルフは、あなたが何をしようとどんな感情を表現しようとゲームを楽しんでくれるし、ともにその醍醐味を味わいたいと感じています。

2010-11-15

「学」から「楽」へ その弐

私たちは常に大なり小なりの問題をかかえ、事態を変えようとします。

今の自分ではいけない、この環境ではいけない、あの人が変わってくれなければ・・・・・

そのためには、どうすればいいのか、どうすべきなのかと思考しはじめます。

 

結果を想定して、ストーリーを作り、行動します。

 

想定外の結果であれば、また新たなストーリーを作り、想定内の結果であってもその状態を保つためにはと、新たなストーリーを作ります。

 

こうして常に問題を生み出し続けていくのです。

 

このループを抜け出すには、どうしたら良いのでしょう。

 

それには、登山のルートを変えるように観点を変えるのです。

何かをする(Do)ことに意識をむけるのではなく、どうある(Be)かに意識を向けるのです。

今の状態を受け入れてないことが、「問題をかかえている」「事態を変えなければならない」という感じ方になっていることに気付くのです。

 

事はたんたんと起きており、それに意味づけしているのはほかならぬ自分自身であることに気付くのです。

解決すべきは、本来のリラックスした「楽」な自分から離れている状態にあることです。

 

私たちは長い間、親、学校、社会から「こうしなさい、こうなりなさい」という常識の名のもとにしつけられ、あるがままの自分でいることから離れていました。

そのことが「問題」を作り出す思い癖(観点)となっているのです。

 

自分がどうなりたいかで行動するのではなく、いま「楽」でありつづける状態の重なりが行動となっていくのです。

 

このことは、体験を通してのみ理解できます。

ここで言う理解とは、新たな知識を得ることではなく、すでに知っていたことを思い出す、あるいは思い出せなくしていた力みをはずすことです。

 

それを感じるためのものが、癒し、そしてゆるしです。

 

ヒーリングはBeの観点から行われると本来のものとなるでしょう。

2010-11-05

「学」から「楽」へ

メーテルリンクの「青い鳥」のお話をご存じの方は多いと思います。

あの話を読んで「幸せは自分の身近なところにあるんだ」と思った場合、身近なところに潜む青い鳥探しをはじめたりしませんでしたか?。

 

私も幸せ探しをしている時は、その「方法」を書籍やブログやセミナーを受けた中に探し求めていました。

 

ある時、ごく普通のたたずまいで、自分がイメージしている「幸せ」な感じとは違うけど、なんとも言えず心ひかれる雰囲気の方に出会いました。

 

その方が何をすべきか、選択すべきかというところからではなく、自分がどうありたいかという観点から話をされていることに気付いた時に、はっとしました。

 

「幸せ」という状態になりたいのに、「幸せ探し」という行動をとってる!!!/

 

精神的に向上しようと「学んで」も、学んでいる状態になってるだけなんだぁぁ

 

そもそも自分がイメージしている目的の「幸せ」や「精神的な向上」は、自分に足りないものを手に入れる(身につける)つまり「学ぶ」ことが条件になってるんじゃないの?

ということは、目的に向かっているはずが、条件を実現してるだけ?

 

そうか、自分がありたい状態でいればいいんじゃないの?

自分がありたい状態って・・・・・・

 

ゆっくりゆっくり正直に自分の中にあるものを感じてみました。

 

「楽(らく)」である・・・リラックスして自分の内にある生命を味わう

 

「学」ぶから「楽」である へ

 

龍慧苑はそんな観点から書いていこうと思います。

2010-08-14