縁起を知る その弐

「無常なもののあり方=因果」「この世は無常である」ということは、この世はすべて因果で成り立っているとも表現できます。

例えば、植物の種から芽がでて、四つ葉になり、つぼみをつけて、花が咲き、種をつけるといった変化(無常)です。

 

事はたんたんと起きてくるということは、すべてのことは因果関係にのって瞬間瞬間起こり続けているということです。

 

そこに苦しみを感じてしまうのはなぜでしょう。

 

自我は、「いまここ」にはおらず、過去には執着をもち、未来には不安をもちます。

つまり「因」には執着を、「果」には不安を投影するのです。

そのためあたかも「こと」が執着や不安そのものであると感じてしまうのです。

 

原因と結果が繰り返し、常に変化していきます。

その変化をおこす関係性に善悪をつけて一喜一憂する深刻さ、緊張感が「苦」なのです。

 

またその関係性と善悪の観念を離すことにより「苦」から解放されようとして、潜在意識の浄化にとりくんだりします。

 

ここで前回のブログで書いた縁起について思い出してみましょう。

「すべての事物は空である」ということは、「すでに完璧であり、満たされており、変化しようがない状態」にあるとも言えます。

 

したがって縁起する(変化する)無常な状態は、空ではない、すなわち実体性がないのです。

実体性のないものに対して苦しみ、解放されようとしているのは、夢の中で起こったできごとを解決しようとしていることに似ています。

 

縁起とは、「愛である」ことを知るために、「愛でない」ことを起こすシステムのようなものでしょう。

 

縁起に善悪を通して起こることを感じるのではなく、縁起によって起こることから「愛である」ことを知る、それが人生の「楽」へとつながるかもしれません。

2011-06-30

本棚からのヒント~縁起を知る

本棚に並べている本を久しぶりに読んだ時に、「ああ、こういうことだったのか!」と感じたことはありませんか?

 

今回はそんな体験をしたお話です。

 

本棚にあった書籍『ダライ・ラマの仏教入門~心は死を超えて存在する』

テンジン・ギャムツオ 著・石濱裕美子 訳

*十一年前に手に入れ、数回読んだ後に本棚のオブジェと化す。

*下記文中の参考引用文献は御著書↑です。

 

すべてのものは「縁起」する

 

縁起とは、条件に依存して生じること、条件によって生じること、条件の力を通じて生じること、という意味になります。

このことは、無知から始まり老死の苦に終わる原因と結果(因果関係)を示した十二支縁起にみられます。

当時は、十二支縁起とはどういうことなのか、そしてその輪廻から抜けるにはどうしたらいいのだろうか、という視点で読み進めていました。

 

今、読みなおしてみると大きな見落としがありました。

 

「すべての事物が空である」というのは、「自分というものも存在しない」とも言いかえられ、これは仏教哲学の根本命題です。

 

この根本命題を論証するための根拠が「縁起していること」です。

「縁起しているものは、何であれ実体性を持たない」

「すべての事物は縁起している」

という二つの事実から

「すべての事物は実体性を持たない」

という帰結となるのです。

 

「縁起しているがゆえに、これらの事物は実体として存在しない」と認識するために、無常なもののあり方(因果)を正しく把握しなければならないのです。

 

これは大いなる意識体が「愛である」ことを知るために「愛でない」ことを想像(創造)したと表現できないでしょうか。

 

因果関係の観えるもの(感情、時間など)そして事物に因果関係を観ている自分は、実体性がなく自我が想像(創造)していることにすぎず、因果関係が観えないものそして事物に因果関係を観ない自分こそ実体性があるのではないでしょうか。

 

人生には試練もギフトもなく、縁起から解き放たれた「楽」があるだけなのかもしれません。

 

因果という視点が自分から消えたとき、事はたんたんと起きてきます。

2011-06-11

変わるということ

変化とは、ものごとの状態や性質が変わること、変容とは、ものごとの様子や見かけが変わることだそうです。

 

自我は、変化することを嫌がります。

今の自分が消滅すると感じるからなのです。

 

自我は、変容することをイメージするのを好みます。

豊かになった、立派になった、自然体になった、悟ったみたいだと思われることで、すばらしい自分を感じられるからです。

 

大いなる意識体である自分を感じる時、そこには変化も変容も存在していません。

 

ずっとあり続ける自分を感じ、何かを得なくても満たされている自分にくつろいでいるからです。

 

浄化や思い込みをはずすことができた時、その時の解放感を評価する必要はありません。

 

自我が創造(想像)した「変化・変容」を受け入れる必要もないのです。

最初から「変化・変容」など存在していないのです。

 

心とからだに、気(愛エネルギー)が満ちていくのをただ感じるだけです。

 

「愛である」ことから遠ざかっていたあなたが、「愛である」ことに戻っていることを、「変わる」と観るのです。

2011-05-12

天職

「私は今のこの仕事が天職です。」「好きなことをやっていたら仕事になっていた。」

そう言う人を素敵だなあと思ったり、羨ましく思ったりしたことはありませんか?

 

私たちは、生計を立て維持していくために、仕事をしています。

そのためには、いやなことを我慢したり、やりたいことと違っている場合もあります。

 

そうしているうちに、いろんなことを考えます。

「自分にはやりたいことがある、もっと適した仕事がある。」

「やりたいことがわからないからとりあえず今の仕事をやりつづけよう。」

「無理してやりたくない仕事をせずに、フリーになって自分をみつめ直そう。」

「どうせやるなら天職とよばれる仕事につきたいものだ。」

 

天職とは、大辞泉には「天から授かった職業。また、その人の天性に最も合った職業。」とあります。

 

この認識があると、まるで青い鳥を探す旅に出ているのと同じではないでしょうか。

 

これを大いなる意識体の視座からとらえなおすとどうなるでしょう。

 

「いまやっていることすべてが天職なのだ。ただそれを思い出すだけ。」

 

その人の天性に合った職業を探すのではなく、いまの仕事に天性(愛である)を観るだけなのです。

どんな内容(職業)の仕事をしているかではなく、どんな風に仕事を通してあり続けているか。

 

「天職」という名の職業はありません。

 

仕事が自分の役割を形成するあり方でなく、仕事を手段として自分のあり方を表現しつづける・・・そこに人は「天職」を感じるのです。

 

「愛である」ことにくつろいでいれば、「天職」となることは起こってきます。

2011-04-27

人生を創造する

「自分が現実世界の創造主である」ということを聞いたことがありますか?

現実世界はすべて自分の思いが反映されたものであるという気づきから出た言葉だと思います。

 

この「自分」とは誰でしょう?

 

「自分=自我」ととらえた時、現実世界は自分を守るため、正しさを示すためのストーリーにのっとって、喜怒哀楽が表現された世界と言えます。

 

「自分=大いなる意識体」ととらえた時、現実世界は「愛である」ことを表現し続けている世界と言えます。

 

つまり「自分=自我」ととらえたままだと、自我が現実世界の創造主であるというストーリーを描いていることになるのです。

自分にやりたいことをして生きよう、いやなことはいやだと言おう、ワクワクすることだけをしよう・・・・・それなのに不安や困難を感じてしまうのです。

 

自我が現実世界の創造主を演じていることに気づき、その役からおりて、愛であることをその人なりに表現しはじめたとき、人生の創造ははじまっています。

2011-04-15

愛であるということ

大いなる意識体のことは、体験的感覚であり、言葉では表現できないと言われています。

 

厳密には、大いなる意識体はただ「ある~Being」なのです。

そこには比較するものがないからです。

したがって大いなる意識体のままでは「ある~Being」の質を感じることはできません。

 

大いなる意識体が「ある~Being」を感じるために、最初に創造(想像)したのは、「愛である(自由)」と「愛でない(制約)」状態なのです。

 

自我が自分であると思っていた「私」が、大いなる意識体が自分だったと思い出した時、顕在意識(肉体という波動)が感じる感覚を「愛である」と創造(想像)したのです。

 

「愛」とは「愛である」と「愛でない」が同時に対等に存在しています。

ふたつを比較することによってしか、私たちの顕在意識には認識できないからです。

 

日常の体験を通して喜怒哀楽の感情を味わうとき、その感情=いまの自分の在り様ではなく、「愛でない(制約)」状態にいるだけです。

同時に「愛である」状態でもあるのです。

 

このように私たちは、絶え間なく「愛」を表現しつづけています。

そのことに気付く、そこに「愛」を観ることを体験したいのです。

 

世界各国の宗教にさまざまな神々あり、仏教にもさまざまな仏があるのも、「愛である」と「愛でない」が同時に対等に存在することをあらわしているように感じます。

 

瞑想(状態としての)により「ある~Being」を体験することもあるようで、それを「空(くう)」と言うのかもしれません。

 

最後になりましたが、「愛とは、対等で同時である」ということは、十数年前に精神世界のセミナーの魁とも言えるS氏から伺った言葉です。

「ものごとの本質は、状態である(be)」ということに気がつくきっかけになりました。

2011-03-28

無条件の祈り

愛を送りたいと感じたときは

自分が愛であるだけでいいのです

すべてのことに愛を観ると決心すること それが祈りです

 

自分の外のものの変化や不足を補おうとしていたのが

自分に愛が不足していたことに気付きます

 

ひとりでは愛エネルギーが足りないと思っていたのが

すべては愛エネルギーに満ち溢れていたことに気づきます

 

大いなる意識のもとに 祈りは無条件におこります

そしてすべての人の中に祈りがずっとあったことに気付きます

その気付きが共鳴しあって 祈りの本質である「愛である」ことになるのです

2011-03-17

今日だけは

今日だけは ~今日も一日

 

怒るな ~ 起きていることの理由を探さなくてもいい

 

心配すな ~ まわりには慈しみが満ち溢れ

 

感謝して ~ あなたがいるだけでありがたい

 

業をはげめ ~ ただ心の平安のおとずれを祈り

 

人に親切に ~ 自分も人にも愛であろう

 

・・・・・・・・・・

 

この度の地震で被災された方々、過去に地震被災を経験された方々、何か力になりたいと思ってらっしゃる方々、そして自分自身へ。

2011-03-12

「理由」のない世界

いろいろな行事への参加、現在の仕事の継続、商品の購買、スケジュールの調整、結婚あるいは離婚など、毎日私たちはさまざまなことを決めながら生きています。

 

ものごとを決める時に、同時に「理由」というものが存在していることに、気がついたことはありませんか?

 

「最近忙しいから、今回はそのイベントへの参加は見送るよ。残念だけど。」

「もう少し若かったら、この色の車にしたいんだけどね。」

「常識的に考えたら、そんな贅沢なことはできないよ。」

「自分に自信がないから、何をやってもうまくいかない。」

「過去世のトラウマから、そういう行動をとるクセがあるようです。」

 

「するかしないか」の選択の視点から行動すると、そうすることを選んだ自分の正しさを見つけることにより、自分の安全をはかろうとします。

 

そのあらわれが「理由」です。

選択した行動より「理由」の方が自分にとって重大に感じてしまいます。

 

インスピレーションから行動を決めると、そこには理由は存在しません。

 

そうすると決めた・・・ただそれだけです。

そうすると決めて行動しはじめた時、それは愛である状態であろうと動き始めます。

 

 

では、インスピレーションがよくわからない時は、どうしたらいいのか?

 

ここで或素人流の方法をひとつの例として・・・・

『何か行動にうつす時、理由を口にしない、ことにチャレンジする』

 

言いたくなったり、クセで言ってしまうこともあるのですが、それはそれでかまわないのです。

その「理由」が自分が大事に持ち続けていた、自分を守るための観念なのです。

そういう観念を持たなくても自分は大丈夫であると感じてみます。

観念浄化のためのテクニックを知っていれば、それを行うのもいいでしょう。

 

また相手を傷つけないために、理由が必要だと感じることがあるでしょう。

その時は、受け入れてくれる相手に対する感謝の視点からの言葉を述べてみます。

「相手を傷つける」⇔「人を傷つける自分は嫌いだ」という自分を守る視点にならないように。

 

最初のうちは、ぎこちない感じもあります。

 

大切なのは、方法ではなく、『インスピレーションから行動している状態』を体験するということです。

 

今、インスピレーションから行動していたことを忘れているだけです。

 

このことを心にとめていれば、自分なりの方法がみつかると思います。

 

すべては愛である状態をさまざまに体験しているだけですね。

2011-03-0

病は気から

病気という言葉を私たちは、不快な感覚がある、痛み、発熱、出血があるなど一定のコンセンサスのもとに使っています。

医療機関を受診してある特定の病気として病名がつく場合もありますが、病名がつかないにもかかわらず相変わらず体調の不調を感じることもあります。

 

病気とは、何を指しているのでしょう。

 

医学では病気を「体の機能、構造、器官などの断絶、停止、障害」すなわち正常状態からの逸脱と定義することが多いが、「正常」という概念そのものが不確かである。

突きつめていくと「異常でないこと」という語義反復の矛盾に陥ってしまう。

自然科学的に病気を定義することはむずかしい。

 

病気の本性について、アメリカの医学者エンゲルハートらは「病気という概念は病人が属す文化や社会のもっている価値や信条によって構成される」という考え方を提唱した。

つまり、病気とは実体というより文化や社会による決め事という側面が大きくからんだ概念である。

*日本大百科全書(小学館)より一部引用

この説明からわかるように、病気とは実体のあるものではなく、概念であることがわかります。

 

今の体の状態をどういう視点からとらえているか、ということなのです。

 

ここでもっと大きな視点から観てみます。

すべてのものは波動でできており、その波動をつくっているのが気(エネルギー)の状態です。

 

「体」を形成している波動は、「体外」から摂取する酸素、水分、食物、微生物、菌類などの波動と共鳴しています。

 

この体の波動と体外のものとの波動が同調していくのが、恒常性と呼ばれるものです。

 

病気とは、体の波動と体外の波動が同調するために、波長の違いを調整している状態なのです。

 

この時に波動が乱れているのは、体の波動です。

他のものには、波動を乱す「思考」が働いてないからです。

善悪を根底とする喜怒哀楽やその犯人探しのための思考が、波動を固定しようとします。

いまのまま(の波動)でいいのか?変わらなければいけないのではないか?

 

その乱れた波動のままで体外の波動に同調しようとしている状態が、「症状」としてあらわれているのです。

 

このことに気付かず、症状=望ましくないもの=病気と「思考」で固定することで、ますます自分で作り出した「病気」という波動に同調していくのです。

 

すべての波動が同調しようとしているもの、それは愛である波動です。

「症状」は、気が流れにくい状態=愛でない状態のままがんばり続けていることのSOSです。

気を固定しようとしている思考をはずし、無理をしてがんばっていることがないか自分自身を見つめなおす、そういう機会を与えてくれるものかもしれませんね。

2011-02-22