本棚に並べている本を久しぶりに読んだ時に、「ああ、こういうことだったのか!」と感じたことはありませんか?
今回はそんな体験をしたお話です。
本棚にあった書籍『ダライ・ラマの仏教入門~心は死を超えて存在する』
テンジン・ギャムツオ 著・石濱裕美子 訳
*十一年前に手に入れ、数回読んだ後に本棚のオブジェと化す。
*下記文中の参考引用文献は御著書↑です。
すべてのものは「縁起」する
縁起とは、条件に依存して生じること、条件によって生じること、条件の力を通じて生じること、という意味になります。
このことは、無知から始まり老死の苦に終わる原因と結果(因果関係)を示した十二支縁起にみられます。
当時は、十二支縁起とはどういうことなのか、そしてその輪廻から抜けるにはどうしたらいいのだろうか、という視点で読み進めていました。
今、読みなおしてみると大きな見落としがありました。
「すべての事物が空である」というのは、「自分というものも存在しない」とも言いかえられ、これは仏教哲学の根本命題です。
この根本命題を論証するための根拠が「縁起していること」です。
「縁起しているものは、何であれ実体性を持たない」
「すべての事物は縁起している」
という二つの事実から
「すべての事物は実体性を持たない」
という帰結となるのです。
「縁起しているがゆえに、これらの事物は実体として存在しない」と認識するために、無常なもののあり方(因果)を正しく把握しなければならないのです。
これは大いなる意識体が「愛である」ことを知るために「愛でない」ことを想像(創造)したと表現できないでしょうか。
因果関係の観えるもの(感情、時間など)そして事物に因果関係を観ている自分は、実体性がなく自我が想像(創造)していることにすぎず、因果関係が観えないものそして事物に因果関係を観ない自分こそ実体性があるのではないでしょうか。
人生には試練もギフトもなく、縁起から解き放たれた「楽」があるだけなのかもしれません。
因果という視点が自分から消えたとき、事はたんたんと起きてきます。
2011-06-11