大いなる意識体のことは、体験的感覚であり、言葉では表現できないと言われています。
厳密には、大いなる意識体はただ「ある~Being」なのです。
そこには比較するものがないからです。
したがって大いなる意識体のままでは「ある~Being」の質を感じることはできません。
大いなる意識体が「ある~Being」を感じるために、最初に創造(想像)したのは、「愛である(自由)」と「愛でない(制約)」状態なのです。
自我が自分であると思っていた「私」が、大いなる意識体が自分だったと思い出した時、顕在意識(肉体という波動)が感じる感覚を「愛である」と創造(想像)したのです。
「愛」とは「愛である」と「愛でない」が同時に対等に存在しています。
ふたつを比較することによってしか、私たちの顕在意識には認識できないからです。
日常の体験を通して喜怒哀楽の感情を味わうとき、その感情=いまの自分の在り様ではなく、「愛でない(制約)」状態にいるだけです。
同時に「愛である」状態でもあるのです。
このように私たちは、絶え間なく「愛」を表現しつづけています。
そのことに気付く、そこに「愛」を観ることを体験したいのです。
世界各国の宗教にさまざまな神々あり、仏教にもさまざまな仏があるのも、「愛である」と「愛でない」が同時に対等に存在することをあらわしているように感じます。
瞑想(状態としての)により「ある~Being」を体験することもあるようで、それを「空(くう)」と言うのかもしれません。
最後になりましたが、「愛とは、対等で同時である」ということは、十数年前に精神世界のセミナーの魁とも言えるS氏から伺った言葉です。
「ものごとの本質は、状態である(be)」ということに気がつくきっかけになりました。
2011-03-28